●恩師、重森弘淹のこと。

1979年、書店の本のタイトルを眺めていて手にした新書が『写真の思想』。20歳のときだった。やりたいことを前に、踏み込めないでいるのか、踏み出そうとしているのか、その迷いの中で読み終えた。巻末には多くの著書、肩書きには写真評論家。そして、東京綜合写真専門学校校長とある。“この人に学べる学校がある”という印象を残し、それから7年がたって、私は夜間部に入学した。1958年、現在の東京綜合写真専門学校の前身である「東京フォトスクール」は新宿区落合に創立。1960年に名称を変えて、横浜市港北区日吉に移転された。私が入学した頃には、30年の歴史をもち、ドイツのバウハウスをイメージさせる雰囲気の中、写真業界での綜合写専は、“ヒヨシ”と呼ばれ、篠山紀信、操上和美、須田一政、土田ヒロミ、本橋成一など、多くの著名な写真作家を排出して一目置かれていた。1926年7月27日、作庭家の重森三玲の次男として京都市に生まれた重森弘淹。名前は、ドイツ哲学者ヘルマン・コーエンに由来しているという。批評家であると同時に教育者であるその思想は、「表現とは、作者の批評行為である、それなくして表現は存在しない」というもので、綜合写専の理念として引き継がれ、多くの先鋭的で個性的な写真家を輩出し続けてきた。私は、1986年から1991年の間、夜学で学び続け、重森校長を尊敬し続け、校長に褒められたくて写真を撮り続けた。綜合写専では、教員、学生はそのカリスマ性に言葉をなくし、学生の合評の際には、ピリピリした空気の中、明解な批評に誰もが圧倒されていた。その傍らで学校の休日には、いけばな教室も併設されて、重森校長が教えていた。思えば、生け花と写真は、一瞬(究極の美)を捉えることへの同じアプローチなのかもしれない。写真批評の草分け、写真教育者としての業績、日本の写真界への功績は云うまでもなく、写真界の基盤を担った重森弘淹。1991年のオリンパスホールでの初めての私の個展、1992年のニコンサロン新宿での個展のメッセージを、重森校長に書いていただいた。その年の10月、重森弘淹68歳で永眠。恩師を亡くしてから、私は作品を撮っていない。(2014/5/6)

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